最初に目についたのは、足だった。

履いているブーツの形から、女性だと分かった。

 

そこから恐る恐る、目線を下に下げていくと、コートを着た胴体があって、頭があった。

顔は髪に隠れて見えず、さらにそこから腕が伸びて、手の甲が見えた。

 

地面のほうへ垂れ下がったその手は、これっぽっちも動く気配がない。

泥にまみれて、全身が濁った緑色に染まっていた。

 

東日本大震災の石碑

あの日。

故郷を襲った真っ黒な波は、私の自宅からほんの数十メートル先まで押し寄せた。

生まれてからずっと生活を共にしてきた街を、次々と呑み込みながら。

 

道路を塞いで横たわる工場のタンク。

壊れた車と流出物で溢れ返った川。

田んぼの中に打ち上げられた船。

 

一夜明けて、瓦礫が散乱する近所を母と歩いていた時、私はその人を見つけた。

 

頭を下に、足先を上に向けた状態で、電柱にぶら下がっていた女性を。

 

東日本大震災で被害を受けた地区

血の気を失って、凍ったように動かない彼女の姿を、私は今でもはっきりと覚えている。

 

あまりの悲惨な光景に、手を合わせることも忘れていた。

母に抱きかかえられて、顔を覆いながらその場を後にすることしか出来なかった。

怖くて、悲しくて、ただ涙が止まらなかった。

 

 

後で聞いた話では、私の祖父や近所の人達によって、その日のうちに彼女は電柱から下ろされた。

 

「しっかりしろ」

「まなぐ(目)開げろ」

 

呼び掛けても全く反応がない。

一晩ずっと宙づりになっていたのだから、もう遅かったのだろう。

 

誰なのか、どこで波に呑まれたのか、詳しいことは分からない。

建物と一緒に流されたのかもしれないし、急いで逃げている途中だったのかもしれない。

遺体安置所に運ばれて、その後無事に家族のもとへ帰れたのかどうかも、結局今まで聞かないままだ。

 

岸壁に立つ木

ただ、当たり前の光景・当たり前の時間・当たり前の日常。

それが僅か一日で、全部消えてしまったという喪失感が、当時の私の心に残った。

 

見慣れた穏やかな光景を、どうしてこんなにも残酷なものに変えてしまうのか。

 

誰のせいでもないし、自然を恨んでも仕方ない。

だからこそ、「どうして?」という思いが込み上げてくる。

 

あの女性も、最期に同じことを思っていたのだろうか。

 

海岸沿いの国立公園

それから一ヶ月は、生き延びるためだけに過ごした。

こんなにも必死に「生きたい」と思った日々は他にない。

 

家の食糧を集めて、食べられるものはなんでも分け合って食べた。

エビせん2枚がお昼ご飯の時もあった。

物置にしまってあった古いストーブで暖をとり、携帯も見ずひたすらラジオを聴いた。

 

 

向かいの家に井戸があって、水はそこから自由にいただくことが出来た。

感謝しながら毎朝水汲みに向かった。

 

電気は点かないので、陽が暮れる頃にはもう寝る準備をした。

久し振りに家族みんなで、同じ部屋に布団を敷いて眠った。

 

松の木の影から臨む海

流れるように過ぎていった、2011年の春。

楽しいことを考える余裕はなかったけれど、そんな毎日を送っているうちに、ふっと気付いた。

 

「『当たり前』こそが一番大切で、感謝すべきものなんだ」ということに。

 

 

毎日食事が出来ることがこんなにありがたいなんて、全然知らなかった。

今までいかに電気や水に頼っていたか、痛いほど分かった。

眠れる家があって、そこで家族と一緒に暮らせることは、こんなにも幸せなんだ。

 

海岸から臨む太平洋

それを学んでから、少しずつ前を向けるようになった気がする。

 

悲しくても、辛くても、この経験は簡単に忘れられるものじゃない。

これからの自分、そして未来を生きる人達のために、大切に生かしていくものだ。

電柱にいたあの女性のためにも。

 

海岸に立つ銅像

今、世界中が不安に包まれている。

毎日のように暗いニュースが飛び交っている。

 

でもこんな時だからこそ、「今」をしっかりと見つめていたい。

 

 

今日一日、何事もなく穏やかに過ごせることに「ありがとう」。

どうか明日も、無事に命の時間が与えられますように。

 

そんな思いを胸に、もうすぐあの日から9年目の春を迎える。